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本誌立ち読み 「私の履歴書」 第1回    -2009年2月号掲載-


「私の履歴書」 第1回

精力的に日常の検査、そして研究に携わっておられる田渕先生。そもそもどうして、この職業を選択なされたのでしょうか? というところから始まって、大変ご多忙な業務の合間に、いろいろと興味深いお話をうかがうことができました。放射線技師を志している方、必読ですよ。


1. 診療放射線技師を志す

技師になる人って、強い志をもっている人もいれば、親類に医療関係者がいてこの職を知り、軽い気持ちでこの世界に入ってくる人もいます。入り口が医師とは違うんですね。

「技師としてがんばりたい」 というモチベーションは、最初はそれほど高くない場合が多く、私自身も事実そんな感じだったんです。通っていた高校は進学校で、親は私に地元の国立大学に入って地元企業に就職してほしい……という願いがあったでしょうが、いつの間にかアウトローになっていました(笑)。当時バイトをしていたお店のお客にレントゲン技師さんがいて、いろいろな話をカウンター越しに聞き、「ああ、こういう職種があるんだなぁ?」 と興味をもったのがきっかけです。いま思えば、その人は乳癌を専門とする施設でマンモグラフィを扱う方でした。患者さんと診断医の架け橋という技師の立場の重要性を熱く語ってくれ、「これは面白そうだ」 と思いましたね。いまから25年前です。

私は結局、3年制の医療短期大学に通うことにしました。大学の雰囲気は高校の延長線上で、朝8時45分から夕方5時までの授業を毎日こなす過密カリキュラム。基礎的な勉強はもちろん、病院での臨床実習も含め、高校生活をもう一度くり返したって感じでした(笑)。でも、部活が放射線科って感じで、とても楽しかったですよ。

確か60人弱のクラスで半数は女性が占めていましたね。全国各地から集まってきていて、卒業するとまたそれぞれの地に散るわけですが、その後は学会で会ったり、医療系雑誌の紙面で見かけたり。長い時間を同じ目的のともに過ごしたので、同志としての絆が強いというか、横のつながりが密で、大所帯のゼミ仲間といった感じでしょうか。現在でも情報交換の場としてメーリングリストを利用し、「今どこで働いている」 という情報にはじまり、「この検査方法について詳しい人いない?」 とか、装置の購入情報やはたまたプライベートな相談まで、とにかくいろいろな内容で、このネットワークを大切にしています。

当時は卒業して医療機器メーカなどに行く人は非常に少なくて、病院に行くことが当たり前でした。求人数もかなり多かったと思いますよ。その後、安定した就職状況から、志望者も増え、大学院に進むような優秀な学生も多くなりましたが、最近の学生はより安定志向になっているようで、以前はあまり人気のなかった保健所のような公的な施設の志望者も増えているようです。そういう意味では “面白さ” を求める 「変わり者(?)」 が少なくなっているのかもしれませんね。


2. 日本医科大学付属病院時代

卒業して、日本医科大学付属病院に4年ほど勤務しました。同期採用された技師は岡山の私、そして愛知と長崎、千葉、東京の青梅からの5人。この中には技師として大学病院に就職後、青年海外協力隊として2年間アフリカで活動していた人や、自衛隊に在籍していた人など、さまざまな経験をしてきたメンバーがいました。技師生活も2年目に入ると長崎出身者と私は病院で暮らしている感じでしたね(笑)。朝の満員電車が嫌だということもあり、次第に院内のロッカーに下着などの着替えをそろえ、患者さんの付添い用の簡易ベッドで休み、技師室にあったユニットバスでシャワーを浴び、朝飯と昼飯は院内食堂で済ませる。さらに当直中の先輩のところで晩飯をごちそうしてもらったりと……(笑)。

そんな生活になった正当な理由も1つあるんです。当時は、まだ自動現像機にフィルムを流して……という時代で、フィルムと増感紙の組み合わせや、管電圧やX線フィルターによって画質がどのように変わるか? というような研究をやっていたんですよ。ウィナースペクトルやMTFを求めるための濃度データを取るために使用する顕微鏡のような読取り装置とコンピュータの速度が遅かった(正確にはソフト作りが未熟だった)ので、夜な夜な電圧の安定しているであろう深夜帯を選んでデータ収集をしていました。夜9時にスタートして2人で仮眠をとりながら3時間交代で機械のスイッチを入れたりして、翌朝みんなが出勤してくるまでの時間をその作業にあてるわけです。いろいろな共通の思い出をもつ日医大時代の人たちとは、今でも親しく付き合っています。


3. 倉敷中央病院時代

日医大でいろいろな日常業務を覚え、研究にも多少携わり学会にも参加し始めた、ちょうどその頃、地元に近い倉敷中央病院に求人があるので考えてみないか? との打診がありました。帰省のついでに見学に行ってみたのが転職のきっかけです。やっと職場にも慣れ楽しくなっていたので最初は興味ありませんでしたが、引き続き研究もできるだろうし、両親もその話を非常に喜んでいたので決心しました。1990年のことです。日医大と倉敷中央病院を比較すると、病床数はどちらも1,000床強でほぼ同じ規模だったんですが、倉敷中央病院はこの頃まだ民間病院の匂いが強く、技師はロングの白衣しか支給がなく、GパンとTシャツに白衣という服装でOKでした(笑)。患者さんも地元の人がほとんどで和気あいあい、緩やかな雰囲気でしたね。しかし、使っている装置や技師数は大学病院と見劣りなく、その後画像診断が急速に進んでいく時代の中、急成長する放射線センターに私もちょうど居合わせることなりました。

その2年後渡辺先生が赴任された頃には、CTはスパイラル方式となり高速撮影時代に入ります。MRIも0.5T装置に追加して1.5T装置が次々と導入され、技師数も急増し一気に若返りましたね。私が入った頃は確か40名弱だったと思いますが、退職する頃には70名という巨大技師室となっていました。地域の基幹病院として、画像診断は、一気にニーズが高まったわけです。ここにいた17年間に非常に多くのことを学ぶことができました。




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